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私は飲んだら書きません! 第一回「酒修行は人間修行」〈エッセイ〉

カテゴリー お酒・遊び・夢・旅・仲間・おしゃれ 等

 一族郎党、みな酒飲みで、私も立派な“左利き”に育った。新潟の酒造組合からは酒好きが認められ、「新潟清酒の名誉大使」の称号を頂戴している。
 とはいえ、日本酒を愛飲するようになったのは、東京から帰郷したあとの20代半ばから。タウン誌の取材を通して新潟に108蔵(1990年当時)もの清酒製造業があると知り、折々に取材執筆をする中で新潟清酒を嗜(たしな)んだ。そのタシナミがウワバミに変わるには、そう時間はかからなかった。なんといっても、親や親族からの素地がある。

酒での失敗はとにかく多い。モノも忘れるし、記憶も飛ぶ。たいして酔っていないようでも「落ちる、転ぶ」もあって、そもそも体幹が弱いのかもしれない。
反面、酒が飲めることで、得をしたことも多い。
なかなかマスコミに心を開いてくれない酒蔵の当主が、何度かの交渉の末、ようやく取材をOKしてくれたことがある。1度、2度と日を改めて取材に出かけたが、出てくるのは表面的な話ばかり。私は、焦りはしなかったものの、これが取材記事として価値あるものになるのか、気にはなっていた。

帰り際、「次に来るときは飲める支度できなさい」と、蔵主から声をかけられた。後日、呼ばれた母屋の座敷には季節の料理と、ビンに詰められたばかりの銘酒。まだ日の高い時間から、注がれるままに盃を傾け、空けた。
無難な世間話が続いていたが、だんだんと蔵の歩みや想いが打ち明けられた。
注いで、注ぎ返して、また注いで。
蔵主の言葉が熱を帯びてくる。
初めはノートに書き留めていた私も、酔いが進むうち面倒になった。酔ったから、というわけではない。いや、酔っていたから、こちらも無垢になれたというべきか。丹精込めて醸された酒を挟み対峙している蔵主の前で、こせこせとメモを取る自分がうっとうしくなった。そこからはペンを置き、胸にとどめた。酒の味と言葉が、酔いも手伝い、響き合って踊った。
「あんなに飲んでいたのに、よくこんな文章が書けたね」。印刷に入る前、蔵主に原稿を見せると、いつもは不愛想にしている人が相好を崩した。私はやった!と心の内でガッツポーズ。ところが「ここはカットでね」と、オチが付いた。それは時代に翻弄され、蔵の想いに反した酒を造ったが、耐え忍んで乗り越えたくだりだった――「読者にとって面白いところなのに」と削除の指示を恨めしく思ったが、取材記事は取材先との共同作業で作られるもの。書き手がひとり、前のめりになっても良いモノは生まれないし、伝わらない。そんな大切なことを、教えられた。
その本を上梓した20数年前には、「あの蔵をこれだけ掘り下げたのは、新潟ではお前さんの他にいない」と、重鎮の酒屋に褒められた。たくさんの人たちに支えてもらい、意地と若さで取材を重ね、書ききったルポルタージュの処女作。読み返すと我ながら(いろんな意味で)ドキッとする表現がありヒヤ汗が出そうになるが、あの本がなければ今の自分はないほど、多くの学びと経験が詰まっている。

他にもたくさんの蔵主と出会い、箴言を得た。
あるときは初対面で開口一番、「アンタでなければ書けないものを書け」と言われ、面喰ったこともある。何か試されているのかと一歩引いたが、つまりそれは、「俺も他にない酒造り、他に出来ない酒蔵運営をしている」という想いの表れ。取材執筆はある意味、取材する側・される側が刀の刃を合わせあう合戦なのだから、「お前も俺と同様にヤレ」という励ましなのだと思い至った。
何年も前のことだが、その人の顔、声色、そして酒米を育てる田んぼや稲穂を揺らす山からの風は、いまでもすぐに思い出せる。良い言葉を頂きました、と、心のスクリーンに映る蔵主に、ありがとうと言っている。

タイトル写真/下手は承知で、自作の器を蔵主に贈ったこともあった。忘れられない想い出

文中写真/新潟市本町のコミュニティカフェ#きーぼうdo.で、不定期に酒の会も主催。ぜひお越しください

石坂智惠美(いしざかちえみ)■記述家。1965年生まれ、新発田市出身。著書に、ルポ作品「新潟を有名にした七人の食人(しょくにん)」(新潟日報事業社刊)、「魚屋の基本」(ダイヤモンド社刊)、小説に「飛べ!ダコタ 銀翼の渡り鳥」(東邦出版刊)ほか。新潟清酒を題材にしたエッセイ、ラジオドラマの脚本も手がける。 ※石坂智惠美で検索 Amazon著者ページ

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